令和の将棋ブーム
まさか、将棋が世間一般にこれほどまでのムーブメントを巻き起こすとは予想してもみなかった。
言わずと知れた、藤井聡太二冠(王位・棋聖)の破竹の快進撃である。その実力は、プロ棋士も多く参加する詰将棋解答選手権を小学6年生で優勝した頃から将棋ファンの間で知られ始めてはいた。名前が広く知られるようになったのは、プロ入り前の最難関である三段リーグを1期抜けして14歳2カ月の史上最年少でプロレビューを果たした頃だったが、そこからいきなり公式戦29連勝して永遠不滅の大記録とさえ呼ばれていた神谷広志八段の連勝記録(28連勝)を更新してしまった。中学生で全棋士参加棋戦で優勝、17歳11カ月の史上最年少でタイトル獲得を果たすなど、将棋界の超新星の話題には事欠くことがない。
気がつけば、将棋ファンの階層も多様になった。一昔前なら将棋ファンといえば将棋を指す者、詰将棋を作る者・解く者くらいだったものだが、将棋を指さない、あるいは将棋のルールさえも知らないけれども観戦を楽しむファン(観る将)も市民権を得ている。最近ではAIが局面の形勢判断を評価値として表示してくれるようになったおかげで、いまどちらが有利なのか、終局が近いのかどうかが将棋のルールを理解していなくても分かるようになったことが大きい。
また、プロ棋士が公式戦の日に出前を取る昼食・夕食や、タイトル戦で両対局者に出される食事やスイーツも、「将棋めし」「将棋おやつ」として1つのコンテンツとして成り立っている(ちなみに、タイトル戦の表舞台や控室に出てくるお菓子にはご当地の逸品も少なくなく、おみやげハンターは要チェックである)。ついにはスポーツ誌である Number が将棋だけで特集号を組んでしまうほどで、これほどまでに将棋というコンテンツが裾野が広くなろうとは。
藤井聡太ブームによる恩恵は、各地の将棋教室も受けている。頭が良くなる、礼儀作法も学べるということで、将棋教室に通う子供が増えた。とある将棋教室は、経営されている方の自宅敷地内にある小さな建物で、中のスペースも座席が詰め詰めで席数もせいぜい30席くらいしかなかったが、壁一面には教室に通う子供たちの名前と対戦成績がびっしりと書き込まれた紙が貼られていた。その人数、およそ 200 ~ 300 人くらいといったところである。いまはコロナ禍で大変な状況にあると思われるが、工夫を凝らして経営を続けてもらいたいものである。
指す将たちが辿る道筋
私が将棋というゲームの存在を知ったのは、たしか小学生4年生くらいの頃だっただろうか。授業の休み時間中に、机の上に将棋盤を広げて遊ぶ男子たちが現れたことがきっかけだった。当時の私は、その様子を観戦しながら将棋のルールを覚えていった。といっても傍で見ているだけだったので、金が真後ろに、銀が斜め後ろに動けることは、もっと後になってから知ったのだが。そんなレベルだったので、私の小学生時代の棋力はまぁせいぜい 10級 程度だと思う。
本当に将棋が強い子、あるいは強くなりたい子は、各地にある将棋道場に通って腕を磨く。腕に自信がある子ならば、小・中学生の地方大会や全国大会の予選にエントリーして試合に出ることだろう。級位者や初心者の子でも気軽に参加できるように、実力に応じてクラス分けがある大会もある。もっとも、ガチで小学生名人を狙うならば少なくともアマ四~五段の実力が必要だ。優勝・準優勝まで手が届かなくても、小学生でそれくらいの棋力があればプロ棋士の卵と見られる。もっとも、それくらい強い子がプロの世界(奨励会というプロ棋士養成機関)に入ったとしても6級くらいからのスタートになり、そこからプロ棋士としての合格ラインである四段を目指すことになる。昇級・昇段を重ねても、上を見上げればそのたびに険しい山々が視界を覆い尽くす、本当に厳しい世界だ。
その一方で、高校生・大学生になってもアマチュアとして将棋を指し続け、学生向けの将棋大会に参加する学生たちもいる。彼らの経歴は実に様々だ。小学生の頃から将棋を指し続けて少しずつ強くなっていく人、大きくなってから将棋のルールや戦法を覚えて将棋部のドアを叩く人、小学生時代に有段者クラスの実力がありながら中高生時代は運動部の道を選び、大学生になってから将棋の世界に戻ってきた人。将棋界の天才たちには早熟であることが何よりも重視されるが、大学生になってから将棋の勉強を始めても遅いわけでは決してない。驚くなかれ、初心者レベルで大学将棋部に入部したにも関わらず、大学4回生のときに地方予選を突破し(大学生の)学生名人戦の全国大会に出場したという猛者もいるのだ。ちなみに、私は中高生時代に在籍していた学校には将棋部がなかったので、自分で勉強しているうちにそこそこ強くなっていたというクチである。
学生将棋界の団体戦の重み
将棋が強くなる取り組みを私が本格的に始めたのは、大学の入学式の後でいきなり将棋部のドアと叩いてからのことである。一口に大学の将棋部といっても、部活動の雰囲気は大学によって実に様々である。一芸入試制度を取り入れているある大学では、全国から将棋の強い学生たちが入学・入部してくるので、日常の練習将棋でも私語禁止の真剣勝負で棋譜(双方の指し手の記録)も取っているという話を伝え聞いたことがある。それに比べて、私がいた大学の将棋部は実に大らかなもので、持ち時間30分秒読み60秒の真剣勝負をすることもあるものの、おしゃべりや口三味線を飛ばしながら将棋を指していることの方が多かった覚えがある。
さて、関西地区の各大学の将棋部が目標とするのは、関西学生将棋連盟が主催する将棋の大会で、大きく分けて団体戦と個人戦の2種類がある。団体戦の中でも最も重視されているのが「一軍戦」と呼ばれる試合で、大きく分けてA級・B級・C級といったクラス分けがなされていて、各級では大学同士が総当たりのリーグ戦で順位を争う。各大学から各試合に出場する選手は7人なので、4勝を挙げた方のチームが勝利となる。
2日間かけて総当たりリーグ戦を行った結果、各リーグの上位1~2校が次回の大会では上のクラスに昇級し、逆に下位1~2校は下のクラスに降級となる。そして、A級リーグで優勝した大学は、全国大会(学生王座戦、富士通杯)への切符を手にすることができるのである。全国大会への2枚目の切符は、一軍戦とは別に選抜トーナメントにより争われ(第二代表決定戦)、これもまた大学将棋部同士がガチで競い合う重要な試合だ。
その一方で、個人戦はトーナメントで争われる試合で、優勝・準優勝・第3位になった選手が全国大会(学生名人戦、学生王将戦)への出場資格を得る。ただ、団体戦・個人戦のどちらが大事かといえば、全国大会への出場が掛かった団体戦というのが多くの大学将棋部における共通認識であったように思う。将棋部の中で強い人だけが全国大会へ行くよりも、皆が揃って全国大会へ行く方が価値がある、ということだ。関西地区の全国大会代表は例年だと立命館大・京大の2校で順当に決まるので、普段は一軍戦に出ないという全国クラスの強豪の人も他校にはいたりするのだが、大番狂わせが起きて自校に一軍戦A級の優勝が現実味を帯びてくると2日目からその人が出場してきた、といったことがあった(そのときの第2代表決定戦は、立命館大と京大が文字通りのデスマッチを演じることになった)。また、新人王戦優勝を狙えるほどの一回生が、勝ち進んでいた新人王戦を蹴って第2代表決定戦の団体戦に出場してきたということもあった。
それほど、大学将棋の団体戦というのは、各大学将棋部の威信を賭けた重要な試合なのである。
絶対に負けられない戦い
関西学生将棋の一軍戦(団体戦)では、対戦校の7名の選手たちが一列になって長テーブルに座る。出場選手はエントリー順位の高い方から順に大将・副将・三将……七将と呼ばれ、大将にはその大学のエース級が投入されることが多い(逆に、大将に当て馬を置いて三将・四将・五将といった中盤にエース級を投入する戦略を取る大学も、あるにはある)。そういうこともあって、A級一軍戦の大将戦には棋譜の記録係が付く。
試合開始に先立ち、大将席で振り駒が行われる。振り駒で歩兵が多く出た大学は大将・三将・五将・七将の試合が先手となり、反対の大学は副将・四将・六将の試合が先手となる。振り駒が終わると、大将は誰が先手になるのかチームメイトに掛け声で伝える。
『〇〇、奇数先』 『〇〇、偶数先』 (※ 〇〇は自校の呼び名)
そして、出場選手たちがお互いに試合開始の挨拶を交わした後、後手の選手がチェスクロックを押して時計のカウントをスタートさせることで、一時間余りにおよぶ戦いの火蓋が切られるのである。
試合の持ち時間は両者30分ずつだが、持ち時間を使い切るまでに決着が付く場合も少なくはない。双方の選手が持ち時間を使い切り、1手60秒の秒読みに追い込まれている中で白熱の終盤戦を繰り広げていれば、大熱戦だ。そうした対局があると、対局席の後ろから(試合中の選手の邪魔にならないように)ギャラリーが3人、4人と付くことがある。そして、熱戦がクライマックスを迎えた後に終止符が打たれると、ギャラリーたちは何事もなかったかのようにスーッとその場を立ち去っていく。試合後には選手同士で感想戦(試合の振り返り)が行われ、感想戦がお開きになった後には空席が残される。
もし、自分が出場した試合が長引いていて、ふと周囲を見渡すと自分以外の席の試合がすべて終わっていて、なおかつ大勢のギャラリーが自分たちの周囲を二重に取り巻いているような状況だったら、一大事だ。
賭けてもいい、現在のチームのスコアはほぼ間違いなく3-3で、自分の試合の勝ち負けによって、チームとしての試合の勝ち負けが決まる状況だ。
その試合、絶対に、ゼッタイに負けてはいけないのである。
最後まで諦めない人たち
将棋の対局(試合)の勝敗が決まるには、大雑把に分けて次の4パターンがある。
大多数のケースは ① だ。自玉が詰んでいるとハッキリ分かる状況で対戦相手もその詰みを分かって指しているときや、「穴熊の姿焼き」のように逆転の目が無くなってしまったときが挙げられる。有段者・上級者同士の対局では、最後の一手詰みになるまで指す ② のケースは少ない。もし最後の最後まで指す有段者がいたら、木村一基九段以上に諦めが悪い人か、あるいは相当に往生際の悪い人である。③ と ④ はレアケースだ。
しかし、例外的にギリギリまで ① の選択肢を選んではいけない場合もある。先述した、団体戦で自分の対局試合だけが残ってしまい、周囲の雰囲気からタイスコアであることが想定されるケースだ。チーム全体の勝敗が懸かった試合は、「頭金の1手詰め」のように初心者でも分かるような1手詰めになるまで指し続けなければならない。最後の最後まで諦めてはならないのだ。『頭金の1手詰めになるまで諦めずに指す』というのは、私がいた大学将棋部で部長を経験されたIさんの言葉である。そして、実際に有言実行してみせた。
一軍戦の試合でのこと。たしかチームとしての勝敗はついている状況だったと思うが、最後にIさんの試合だけが残っていて、その周りをギャラリーたちが取り囲んでいた。その試合は相入玉模様で、形勢はIさんの方が劣勢だったように思う。それでも、諦めることなく指し続けている。
1一馬。
よく見ると、馬の利き先の5五には相手の竜がいる。
対戦相手の方は、次の手で馬に取られそうな竜を逃がした。
するとどうだろう。
Iさんは間髪入れず 9九馬! とそこに居た相手玉を獲ってしまったのである。
このことは、別にIさんに限った話ではない。別の先輩方のケースを話そう。部内の練習将棋でのこと。相穴熊の戦型で、形勢はその方が負けそうな状況。その状況下で、その方は苦し紛れに1九角と受けの手を放った
……かのように見えて、実はその角は盤上の遥か対角線上、9一の相手玉にリーチをかけており、その2手後に角が9一にダイブを決めて唐突にその将棋の勝敗は決したのである。
まったく、油断も隙もあったものではない諸先輩方である。
驚くべき話はまだある。また別の先輩方の話になるが、その方が個人戦トーナメントで全国クラスの強豪に当たってしまったときのこと。その方は、最初から二歩狙いで勝つ(つまり対戦相手がウッカリ反則の手を指す)ための作戦を温めており、本当に相手に二歩を打たせて勝ってしまったのである。
傍目には偶然の結末に見えただろうが、内実は計画的犯行である。それを本番で決めてしまうとは、恐ろしすぎるにも程がある。
投了が許されない戦いは、何の前触れもなく突然やってくる
大学将棋部が掲げる目標は、大学によって様々である。全国大会の常連である立命館大・京大ならば団体戦・個人戦ともに全国大会で優勝することが目標であるし、一軍戦A級に定着している大学であれば上位2校の厚い壁を破って全国大会出場を果たすことに他ならない。私が現役の頃の大学将棋部の目標は、過去20年以上に渡り成しえていなかった一軍戦A級リーグ残留を果たすことだった。
私が所属していた将棋部の全盛期は20数年前の頃で、2度のA級一軍戦優勝、全国大会3位を経験している。個人戦に目を向けても、関西学生名人を3人輩出している。その中でもHさんはその後アマチュア棋戦での活躍が目覚ましく全国支部名人になること2回、さらに60代にして朝日アマ将棋名人戦の関西地区予選を突破して全国大会出場を果たすなど、もはやレジェンド的存在である。本当に目が霞むような歴史だが、そこまで行かなくとも一軍戦でA級残留を果たすということは関西地区内における実力の証明であり、将棋部の歴史に残るだけのインパクトがあるのだ。その目標は先述のIさんが部長になられた時の頃からの悲願であったが、A級常連校の壁は厚くなかなかその目標を果たせずにいた。
ただ、私の当時の棋力は初二段クラスしかなかったので(しかも終盤が弱かった)なかなか一軍戦出場の出番が回って来ず、一軍戦デビューしたのは3回生になってからと随分遅いものだった。それ以降は4回生まで準レギュラーとして一軍戦にしばしば出場したが、一軍戦A級の舞台はその程度の棋力では厳しいもので過去の記憶を辿ってみた限りではA級での勝利は1つしかない。チームの勝ち星は、同期生と一つ下の学年の後輩たちが稼いでいた。
その私が、20年数年ぶりの一軍戦A級リーグ残留が懸かることになった対戦で、自分の勝敗でチームの勝敗が決まる状況になってしまったのである。
その将棋のオープニングだけは今でも覚えている。私が後手で ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △8四飛! だ。かの『奇襲大全』で、「棋理キリ舞い戦法」として紹介されている乱戦狙いの作戦で、将棋の筋に明るく綺麗な将棋を指す若手の人に対して相性が良い。実際、早々に定跡形から外れて力戦模様となる中で後手の私がペースを握り、中盤戦でリードを奪った。
その後は双方が相手の玉を攻め合う応酬となったが、私にしては珍しく最終盤まで優勢をキープし続けた。形勢は完全に私の一手勝ち。ただし、一手でも間違えれば形勢がひっくり返る僅差のリードだった。将棋の試合を経験したことがある人なら分かることなのだが、僅差で優勢を維持していて一手のミスも許されない状況こそが、将棋の試合で一番プレッシャーがかかるのである。
そういう状況で、私はやらかしてしまったのである。相手玉に詰めろをかけ続けておけば問題ない局面なのに、相手玉に詰みありと錯覚して角のタダ捨て。
▲同玉 と取られてから、相手玉が詰まないことに気がついたものの、既に手遅れ。形勢逆転。
どうしたものかと、私はふと自分の周囲を見渡していた。すると、試合が行われている長テーブルにはもう自分と対戦相手の2人しか座っていない。そのかわり、自分たちの試合の周りを、私が今まで経験したことのない人数の立ち見ギャラリーが二重三重にもなって取り囲んでいる。
その異様な雰囲気から、私は自分が置かれている状況を瞬時に理解した。チームの星勘定はタイスコア。つまり、自分の試合結果でチームの勝敗が決まる。そう、目の前の将棋は絶対に、ゼッタイに負けてはいけない勝負の舞台になってしまったのである。
にも関わらず、自分の試合はついさっきやらかした大ポカのせいで一転してボロ負けの形勢。相手玉を捕まえるのは不可能になってしまったので、常識的に考えて 100% 勝ち目がない。
どれだけ絶望的な状況であっても、勝負を投げてはいけない、投げることが許されない場面というものが勝負の世界にはある
そのとき、まず私の頭の中で浮かんだのはA級リーグの対戦表だった。当期A級リーグでは参加6校のうち下位3校が残留争いをしていて、どうやらその3チーム間で星の潰し合いになりそうだった(言うまでもなく、私のいるチームはその中の1つだ)。もし私がここで負けた場合には、最終的にその3校のリーグ成績が1勝4敗で並ぶ可能性があり、その他の条件面も勘案するとA級リーグ残留が確定する4位の座を確保することが難しくなる。うちのチームとしては、そうなる状況は避けたい。
重要なのは、いま戦っている対戦校は上位3校のうちの一角だということだった。もし、この試合の対戦結果が3勝3敗1引き分け、つまりチームとしての勝敗がドローになった場合は、チームの勝ち点は0.5としてカウントされる。その場合、さっき書いたように下位3校で星の潰し合いになればうちのチームが1勝1引き分け3敗(勝ち点1.5)、他の2校が1勝4敗(勝ち点1)ということになって、A級リーグ4位の座を確保できるのだ。
勝てなくてもいい、目の前の将棋を引き分けさえすれば、長らく諸先輩方の悲願であったA級リーグ残留の夢が叶う……
30分の持ち時間を使い切り、60秒の秒読みに追われる状況の中、そうした考えが一瞬のうちに私の頭の中をよぎった。
チームの勝敗だけでなく、A級リーグ残留が事実上懸かっていた試合なので、たとえ必敗形であろうとも最後の最後まで諦めてはならない。どれだけ絶望的な状況であっても、最後まで指し続けなければならない将棋がそこにはあった。
私に残された手段は1つしかない。入玉だ。自玉を敵陣深くまで潜り込ませて絶対に捕まらない形を作り、持将棋(引き分け)を狙う。
角をタダ捨てしてしまった痛恨の落手から2手後、私は自玉を3段目に上げる手を指し、敵方の駒がいまだに多く残る敵陣への突入を宣言したのである。
敗色濃厚な棋勢のなか、私の玉上がりの手を見たギャラリーの方々は何を思ったのだろう。双方が攻め合い勝ちを目指している将棋で一転して入玉を狙いにいくのは、ハッキリ言って狂気の沙汰だ。のちに後輩は一軍戦回顧録の中で「私だったら投了している」と書いていたので、私がいつ投了するか、という見方をする人の方が多かっただろう。
実際、私は諦めることなく指し続けていたものの入玉の必須条件である上部開拓がほとんど何もできていなかった状況だったので、それほど手数が掛からないうちに負けの形が出来上がりつつあった。今風に言えば評価値 -5,000 くらいの局面が延々と続いているようなもので、あとは相手の方がいつ私の玉の死命を制するか、そういう問題だった。次にこの手を指されたら投了止む無し、そういう局面がいくつかあった。
しかし、私は大先輩であるIさんの言葉通り「頭金で詰むまで、決して最後まで諦めてはいけない」ことを忠実に守り続けたのである。
一度は去って行ったギャラリーたちが戻ってきた
かたやギャラリー陣はというと、冷静だ。私の負けを確信した人たちは次々にテーブルの周りから去って行った。最終的に残ったのは、おそらくは新米さんで秒読みも覚束ない秒読み係を含めて2~3人くらいだったように記憶している。あまりにも不安定な秒読みだったので、対局者である私から「(60秒の)秒読みは30秒、40秒、50秒から1、2、3の順でお願いします」と声掛けをする羽目になってしまった。試合が長引いたため途中から秒読み時間が30秒に変更されたときには、秒読みが始まるタイミングが遅れたために危うく時間切れしそうになり「30秒の秒読みは、10秒、20秒、1、2、3の順にお願いします」と再び説明をした。秒読みとも戦わなければならないのか私は。
盤上の方はというと、自玉の危機的状況は相変わらずだった。自玉を敵陣の1八まで奇跡的に逃がし切ったものの、周りにいる自分の駒は2八にいる生角だけ。成っていない角なので小回りが利かず、金駒で包囲網を築かれたらひとたまりもない。かといって適当な対処方法も思いつかなかったので、もう成るようになってくれという思いで私は指し続けていた。この将棋、もし途中で負けを認めたら後で一生後悔するすることになる、その一念で指し続けていた。
ところが、予想に反して私の王将が攻められることはなかったのある。一体、何が起こっていたのか。
終局後の手短な感想戦で、対戦相手の先輩とおぼしき方が私の王将には何度も寄り(勝ち筋)があったと指摘していたのだが、その言葉を聞いている対戦相手の方の目は心なしか虚ろに見えた。相当に疲労困憊しているような様子だった。私も対局途中で、何か様子がおかしいことに薄々気がついていたのだが。
似たような経験があるので書くと、将棋が入玉模様の長期戦になる中で集中力が切れてしまうと自玉の周囲しか視界に入らなくなってしまうのだ。将棋盤の外の様子も全く見えなくなってしまう。そうなると精神状態になると、もう自分の王将を安全にすることしか考えられなくなって、相手の玉を捕まえるどころではなくなってしまう。おそらくは、それが真相だろう。
きっと、私が序盤早々に△8四飛と将棋の常識にあるまじき手を指し、中盤にかけて相手の感覚を破壊するような差し回しをしたことが後々になって影響したのだと思う。不慣れな陣形での乱戦を余儀なくされて神経をすり減らされた上に、土壇場になって私が入玉を企ててくるとは予想だにしていなかったに違いない。ひょっとすると「此の期に及んで、なぜ投了してくれないのだろう」と思われていたのかもしれない。
もし、相手の方に私と同じくらい周囲を見渡せるだけの精神的余裕があったなら、私は負かされていたに違いない。
そのようなことが現場で起きていることも知らないチームメイトは(おそらく、その場にいた大勢のギャラリーたちも)、あの将棋がいつ終わるのか、会場内の控えのテーブルでずっと待っていたことだろう。ところが、いつまで経っても私は戻って来ない。様子を見に行くと、まだ将棋の試合をやってるけど、形勢は相変わらず。だったらそのうち終わるだろう、えっまだ終わらない……控えの様子はそんな感じだったのではなかろうか。
いつの間にか、私の自玉の危機は過ぎ去ってしまっていた。すると、異変を察知したギャラリーたちが1人また1人と現場に戻ってきた。
対局者を除いたほぼすべての人々にとって、予想だにしていなかった結末が訪れようとしていた。
勝ちに等しい引き分けを執念で掴み取る
もはや、双方の王将が捕まりそうになさそうなのは、周囲の人たちから見ても明らかだった。そうなると、あとは持将棋が成立するかどうかの問題になる。その状況下でやるべきことは2つある。1つは自分の駒の点数の確認だ。持将棋のルールでは、王将は0点、大駒(飛車・角)は5点、それ以外の駒はすべて1点としてカウントされる。数え間違えては一大事なので、指差ししながら自分の駒の点数を数えてみたところ、最低ラインの24点まで少し足りない。そうであれば話は早いもので、私は取り残されている相手側の駒を攫っていき第一関門をクリアした。
もう1つは、大会ルールの確認である。周囲のギャラリーの中に大会運営者らしき人を見つけた私は、「持将棋になった場合のルールは?(24点法か27点法か)」と尋ねた。すると、「24点法です」との回答が。うん、やっぱりね。過去に引き分けになった試合があったことは知っていたから。
24点法か27点法かの違いは、かなり重要だ。27点法の場合には引き分けが存在せず、1点でも点数が多い方が勝ちとなり、点数が同じ場合には後手の勝ちとなる。アマチュアの将棋大会では27点法が採用されているケースもある(トーナメント形式の場合に多い)。
気がつけば、秒読み係は新米さんらしき方から、それなりの経験を積んだ方に変わっていた。
自分に負けが無くなったことを確信した私は、最後にちょっとだけ欲を出した。隙あらば、相手から駒を奪って24点未満に追い込む。そうなれば、引き分けではなくまさかの大逆転勝利だ。実際、技を捻り出して1点を掠め取ったのだがさすがに相手の方も警戒したのだろう、駒同士の連係を固めてこれ以上駒を奪える目途は立たなくなってしまった。
もうそろそろ、潮時だろう。
この将棋の途中の指し手は全く覚えていないが、最終手は今でも覚えている。
△1八竜。
これで双方の盤上の駒がすべて敵陣に入り込む形になったので、大会運営者の方の裁定により持将棋が成立した。
終局直後はお互いにフラフラな状態だったので、感想戦を手短に行ってその場は解散となった。私が現場に1人残って将棋盤と駒の後片付けをしていると、1年下の後輩がやってきて報告をしてくれた。
『喜んでください!(チームの対戦結果は)勝ちに等しい 引き分けですよ!』
やっぱり、そうだったのか!私は、絶対に負けてはいけない勝負を凌ぎ切ったのである。その瞬間は、私はひとこと『よかった~』と呟いた後は、ただただ脱力するばかりだった。
最終的には、その引き分けによる勝ち点0.5が光り輝く結果となり、私の大学のチームは20数年ぶりとなる一軍戦A級リーグ残留を決めたのである。その日の打ち上げの席で、挨拶の順番が回ってきたとき私が開口一番に放った一言は、こうだ。
『1勝もできなくてチームのお役に立てず、申し訳ありませんッ!』
めちゃくちゃウケた。
プロ棋士でも団体戦では投了の美学をかなぐり捨てた
似たような話は、実はプロ棋士の世界でも過去にあった。第2回電王戦 第4局(Puella α × 塚田泰明九段)がそれで、将棋盤を挟んだコンピュータ 対 人間の戦いの中で、最も異様かつ過酷と言われた試合である。
その将棋は相矢倉の戦型から Puella α が優位に立ち、塚田九段は大きな駒損を甘受しつつ入玉に活路を求める形になった。塚田九段が入玉作戦に最後の望みを託したのは、事前に貸し出された旧バージョン(ボンクラーズ)が入玉をしてこないことを知っていて、その弱点を突けば勝ち目があると考えていたからだった。人間同士の対局であれば相入玉を狙われてしまい点数差で確実に負けてしまうため、対コンピュータ将棋に特化した作戦と言えた。
しかし、Puella α は塚田九段を絶望に追い込む手を指した。125手目 ▲7七玉。本番用の Puella α には、入玉対策が施されてあったのだ。Puella α の王将が悠然と入玉を目指して行進する様に、控室は騒然となった。もはやの Puella α の王将を捕まえるのはできず、持将棋を狙おうにも点数差が開きすぎていた。塚田九段の勝利はもはや不可能な状況であり、第4局の観戦記者を務めた河口俊彦七段を始めプロ棋士の間からは立会人である神谷広志七段(当時)に対局を止める、つまりは投了を促すように求める声は少なくなかったそうだ。
にも関わらず、心が折れているはずの塚田九段は潔い投了という選択肢を選ばず、泥まみれになってでも指し続ける道を選んだ。
理由は、第2回電王戦は5対5の団体戦であり、人類の1勝2敗で迎えた第4局まで負けてしまうと最終局である第5局を待たずしてプロ棋士側の敗北が決定してしまうからであった。当事者である塚田九段は、今回の対局が個人戦であったならば Puella α が入玉を目指した時点で投了していた、と後になって語っている。コンピュータ相手の団体戦だったからこそ、最終的なチーム成績が引き分けになる可能性を残すために塚田九段は最後まで戦い続けたのだ。
その後、勝利が確定的と思われた Puella α だったが、入玉対策が不完全だったこともあり意味のない指し手を連発するようになった。百戦錬磨のプロ棋士である塚田九段がその隙を逃すはずがはなかった。持ち駒の金・銀を次々と盤上に投入して Puella α の大駒1枚を捕獲したことで点数差は一気に縮まり、222 手目 △8七と引 で持将棋のボーダーラインである24点の確保に成功する。その瞬間、生放送会場のニコファーレは拍手で包まれた。最終的に第4局は 230 手で持将棋が成立し、プロ棋士側の勝ち越しは無くなったものの団体戦の勝負の決着は第5局に持ち越された。塚田九段の異常なまでの執念は実を結んだのである。
塚田九段が投了しなかったことに否定的な棋士が少なくなかったのは、プロ棋士たちには真剣勝負の団体戦を経験する機会がほどんどないためであろう。将棋は純粋な個人戦だから、私だったら潔く投了する、というわけだ。また、プロ棋士が指した将棋は棋譜(指し手の記録)として残るため、事実上の勝負がついてしまったらそれ以上棋譜を汚すべきではないという考えが昔から根強く残っていることも大いに影響している。逆に、大学将棋・職団戦などの団体戦を数多く経験しているアマチュア選手ならば、私のように指し続けることを選ぶ方は少なくないのではなかろうか。
ところで、時代の進歩とは予想を超えるもので、コンピュータ将棋の進歩はプロ棋士たちの「投了の美学」をも塗り替えつつあるようだ。投了が早いと言われている棋士が、自分が早々に投了した将棋の投了図をいくつかコンピュータ将棋に分析させたところ、自分が優勢であったものが何局もあったのだそうだ。いまやコンピュータ将棋はプロ棋士たちにとって欠かすことのできない道具として定着しており、プロ棋士たちの常識も今後変わりゆくかもしれない。
第2回電王戦の舞台裏で参加者たちが何を思っていたのかは、山岸浩史さんが現代ビジネスに書いた記事(前編・後編)が詳しい。コンピュータ将棋が人類をまさに追い抜こうとしていく過渡期の歴史を、克明に描写した秀逸なレビューである。
いつの間にか学生時代よりも棋力が伸びていた話
話を元に戻そう。将棋に強くなりたくて大学将棋部に入った私だったが、棋力が伸び悩んでいたこともあって終わり頃には将棋を強くなることに限界を感じていた。社会人になってきちんとした盤駒を揃えたりするなど将棋に対する興味が薄れたわけではなかったが、本業が多忙になったり、将棋以外にも趣味が増えたりしたせいで将棋の駒を触る機会はなくなり、実戦を指すこともほとんど無かった。実際、真空管アンプを何台も作っていた頃は将棋のことは頭の片隅にもなかったし、その間は将棋部のOB会からも足が遠のいていた。さすがに、Bonanza が世間を騒がせた頃はちょっと触っていたけれど(10回に1回も勝てなかった)。
かといって、将棋について何もしていないわけではなかった。私が現役時代に伸び悩んでいなかったのは終盤が弱かったことが一因だったのだが、その根本原因は終盤の速度計算の仕方が全く分かっていなかったからだった。というか、その自覚もなかった。速度計算のことを理解して将棋を指せるようになったのは、社会人になってからだ。
終盤の速度計算は、お互いにノーガード(守りの手を一切指さずに)で攻め合ったときにどちらが先に相手の玉を詰ましたり、王手が掛かる形にすることができるかが基本的な考えになる。そのことを知ったときは、そういうことはもっと早く教えてくれよ、と思った。ほかには、「相手に駒を渡す」ことに無頓着でいたことに今更ながら気づいたことが大きかった。この駒を渡すと相手に反撃の手段を与えたり自玉に詰みが生じるとか、この形なら横駒・斜め駒を相手に渡しても自玉に詰みが生じないとか、現役時代には頭では分かっていたつもりでいたのだが。駒を渡す・渡さないことに注意がいくようになってはじめて、逆に相手が攻めてきたときに自分に渡してくれそうな駒を計算に入れて反撃の目算を立てたり、反撃の形を予め整えておくことで相手が駒を渡しにくい状況にしたり、といったスキルを実戦で駆使できるようになった。それによって逆転勝ちの機会は明らかに増えた。
学生時代に買った棋書は時代遅れになってしまったので社会人になってからすべて処分してしまったが、新たに1冊の本を買った。前々から気になっていた存在であった天野宗歩の全局集だ。気が向いたときには、その棋譜を盤駒で並べたりしている。人類はAIに追い抜かれてしまったが、それでも天野宗歩の棋譜はいい。指し手に雑味がない。天野宗歩の全局集は時代を超えて通用する棋書であり、指す将にとって間違いなく無人島に持っていくべき1冊である。詰将棋は、将棋連盟のHPに毎日掲載されている詰将棋を解いているほか、詰将棋パラダイスが出している本の中から3手詰めから7手詰めの本を選んで解いている。
コンピュータ将棋には、(AIの強さによるが)2枚落ち~4枚落ちで教わっている。最初は4枚落ちでも銀桂歩だけの細い攻めで手を作られて自陣が炎上してしまっていたが、百回以上も指しているとコンピュータのカミカゼ攻撃を凌ぎ切れるようになったり、受けから攻めに転じる機会を掴んだりできるようになった。いわゆる「相手の攻め駒を責める」ようにして攻めを切らせる指し方を覚えることができたのは、コンピュータ将棋のおかげだ。
少しずつだが、そういうことを積み重ねていくうちに、いつの間にか初二段クラスの相手は私の敵では無くなっていた。いちど、ある現役のプロ棋士の先生に指導対局で教わる機会があったのだが、終局後に「少なくとも二段よりは上です」とハッキリ言われた。もし現役時代に今の私くらいの棋力があれば、間違いなく一軍戦の主力として他校と渡り合うことができただろう。まったく惜しいことである。
真剣勝負を楽しむ
現在のアマチュア将棋界は、一昔前と比べて全体的に底上げされているように思う。プロ棋士の対局のインターネット中継が充実したことで最新型の情報が入手しやすくなり、コンピュータ将棋を研究に活用することは当たり前のようになっている。元奨励会の方がアマチュア棋界に及ぼした影響も見逃せない。おそらく、いまの学生将棋界も私が出場していた頃と比べれば一段くらいレベルが上がっているのではなかろうか。
だから、最近では将棋部のOB会で指す相手が現役生であっても気が抜けない。私がいた大学将棋部でも、今では現役生のトップクラスとなると四~五段クラスの実力があるので、そういう場合にはこちらが胸を借りる立場になる。OB会には基本的に将棋の腕に覚えのある方々が集まってくるので、その中で将棋を指すのは大変だが、とりあえず三段程度の実力があれば恥ずかしい思いはせずにすむ。
将棋を指す機会は昔と比べてずいぶん減ってしまっているが、やっぱり将棋を指すのは楽しい。だから、将棋を長く指し続けているのだろう。
久保利明九段のモットーに、「真剣勝負を楽しむ」という言葉がある。タイトルを獲る以前は「勝たなければ」という気持ちの方が強くなってしまって、いつの間にか将棋を楽しいと感じなくなってしまっていたのだそうだ。でも、どれだけ強い人であっても永遠に勝ち続けることはできない、必ずいつかは負ける。だったら将棋に勝つことよりも将棋を楽しむことを意識した方がいい。そう心掛けることで、無用なプレッシャーから解放されるようになりタイトルに手が届くようになったそうだ。
もっとも、「真剣勝負を楽しむ」という言葉は、幾多の勝負で修羅場を潜り抜けてきた人だからこそ口にできる言葉だ。久保九段は華麗な駒捌きで観る者を魅了する「捌きのアーティスト」という二つ名で知られる一方で、形勢が悪くなってから強靭な粘りを見せる「粘りのアーティスト」という異名を併せ持つ。自分がどれだけ強くなっても全戦全勝することまではできないということは、対戦相手もいつかは必ずどこかでミスをして負ける。だから、逆転できる可能性が1割もないような状況であったとしても、その1割のチャンスを拾うために最後までとことん粘り倒すのである。そして、そうやって拾う勝ち星が少なからずあることも長年の経験で知っている。
最後まで諦めないプロ棋士は誰かと聞かれて思いつくのは、木村九段、久保九段、深浦康市九段といったあたりだ。いずれもタイトルホルダー経験者である。最後まで諦めない資質は、勝負の世界で一流に這い上がるための条件のようなものらしい。
逆転の見込みが薄い敗勢の将棋を粘っても、報われることはほとんどないし、しんどい。それでも、もし苦しい将棋を「楽しんで」粘る人がいたら、対戦相手としてこれほどおっかない人はいないのである。
盤上の事件・事故は日常茶飯事
それにしても、将棋はスリリングでドラマティックなゲームだ。どんなに優勢、必勝態勢であったとしても、たった1手のミスですべてが台無しになってしまうこともある。人類がAIに追い抜かれてもなお、人間同士が指す将棋を観戦する人が絶えない理由はそこにある。
将棋というゲームのそうした性格上、盤上ではプロ・アマ問わず実にさまざまな事件・事故が起きる。「目から火の出る王手飛車」に代表される大技が飛び出したり、打ったばかりの駒がタダで素抜かれしまったりとか、負けそうな方が最後の王手ラッシュをかけていたら相手が応対を間違えて詰むはずのない玉が詰んでしまったとか、そういったことは割と平気で起こる。反則の中で一番多いのは二歩だが、王手放置もわりと実戦ではよく(?)発生しがちである。勝ちそうな状況で相手玉の詰みや寄せのことばかり考えていて、自玉に王手かかかっていることに気づかなかったというのが典型的な発生パターンで、自分の王様をポロっと取られて呆然とする人は後を絶たない。
私が実際に指していて一番ビックリしたケースは、相手が勝っている局面なのに、なぜか相手が投了してしまったことである。将棋の勝敗は王将が1手詰みになる前であれば投了が優先されるので、たとえ自玉があと1手で詰まされる状況であっても、そこで相手が投了してしまったら相手が負けになってしまうのである。いわゆる「投了したことが敗着」と呼ばれる事件だが、意外にも同じような事件はプロの世界でも何例か起こったことがあるらしい。
ちなみに将棋で大悪手を指してしまうのは、秒読みに追われているのに次に指す手が分からなかったり、ふと気が抜けてしまったときにしたときが多いようだ。なので、もし将棋が劣勢で大逆転を狙いたいときは、最善手でなくても相手が1ミリも考えていなさそうな手を指したり、神経に触りそうな手を指したり、秒読みが切れそうなタイミングで慌てたフリをして実は罠を仕組んだ手を指す、というのが実戦的な心理テクニックだ。
ひょっとすると、将棋が一番強い人間とは、催眠術をかけるのが一番上手い人間のことなのかもしれない。